このごろ、小説とか、詩とか、随筆とか、テクストの纏う形に敏感になった。
幼い頃、小説は私の逃げ場だった。
振り返りたくない過去がもたらす罪悪感、生きることに対する同級生との温度差、ずいぶん長く思えたこれからの人生。
小説を読んでいるときだけは、それら全てから逃れ、人目を気にせず息をすることができた。
深い海に潜るように没頭し、このまま浮上せず、この世界に浸っていたいといつも思っていた。
あるときは主人公に強烈な"わたし"を感じ、あるときは、"わたし"がどこにも存在しない世界を楽しんだ。
そうするうちに、私は輪郭を保ったまま、空っぽになっていけるような気がした。
去年の夏、詩に出会った。
そこそこまともに生きていると思っていたけれど、詩の言葉はあまりに眩しかった。
詩は生きたいと願う人の言葉だと知った。けれども、私はあまりに死を願いすぎていた。
見知らぬ生物を観察するように、わたしは詩を眺めた。
書くことが私を生かしてくれるかもしれないとペンを手に取ることさえあった。
日の光からこぼれるようにして生まれた一篇の詩は一縷の希望となったけれど、そのような瞬間が訪れることは二度となかった。
今のわたしになじむのは、随筆ばかり。エッセイは全ての人の日常に寄り添ってくれる。
失われかけた日常を取り戻そうと、バラバラになったパズルを埋めるように、それぞれのピースの形を眺めたり、全体を俯瞰してみたりしている、この頃。
ひとが日常について語る言葉は、そうした行為ひとつひとつを支えてくれるような気がする。
朝になってベッドから起き上がり、ごはんを食べて、一日の活動を始める。作業に没頭しては、昼ごはんを食べ、また作業に舞い戻る。
そのどれもが当たり前ではなくなってしまった今。
日常のなかの些細な気づきを軽やかに語ってみせる随筆は、私にささやかな勇気を与えてくれる。
なんでもない日々を味わってみようという勇気。
何もできなくなった自分を許してみようという勇気。
いつか、パズルのピースがぴたりとはまる日が来るかもしれない。
希望を抱くには勇気が必要。
見知らぬ人の日常にそっと耳を傾けながら、今日一日を生きる。
明日、少しでも新しい私になれるよう願いながら。
言葉の世界はかたちを変え、いつもわたしを支えてくれている。